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History

普門寺の歴史

普門寺は真言宗智山派に属し「新編相模国風土記稿」や寺伝によると、奈良時代・天平年間(729~749年)僧・行基が造像した聖観世音菩薩像を奉安し創建されたと伝えられる相模における古刹です。
その後の江戸時代に至るまでの歴史は明らかではありませんが、現存する平安後期の聖観世音菩薩像や室町時代の板碑等の年代から考察しても、当地における霊域として常に重要な場所であったであろうことは想像できます。
慶安元年(1648年)徳川幕府より十七石七斗余りの御朱印地を賜り、元禄11年(1698年)頼真により中興開山されました。
往時の構えは、東福寺・知恩寺・大悲山慈眼寺の三ヵ寺(慈眼寺・観音堂のみ現存)を従え、背後の山上には飯縄権現社、更には三島社と、この地域の鎮守神の別当寺院として、豪壮な堂社・伽藍を構え、霊威赫々たる真言宗の祈願道場として隆盛を誇ったと伝えられています。
このことは、現在に残る広大な寺域、およそ300年前に造営された観音堂や飯縄権現堂本殿などの建築物から一見してもうかがい知ることができます。
近代に入り、明治維新の廃仏毀釈や戦前戦後の混乱などもありましたが、地域の人々の信仰は途絶えること無く脈々と法灯が守られ、「相模の普門寺」として人々に親しまれ現在に至っています。
新編相模国風土記より
普門寺外観

Things/ Precincts/ Cultural properties

境内・建物・文化財

本堂
本堂は七間四面の寄棟造、山を背に落ち着いた佇まいを見せています。これは二百数十年前の本堂新築時に祝融の災いにあい用材を焼失したためと伝えられています。
御本尊「不動明王」は江戸時代の作であり背後の山上に祀られる飯縄大権現の本地仏で、身丈一尺八寸、火炎光背三尺三寸の威厳あふれるお姿です。両脇には真言宗・宗祖「弘法大師」中興の祖「興教大師」の両祖大師尊像を祀り、内陣左の間には銅造・地蔵菩薩立像、奥には位牌堂があります。
江戸時代後期の建造物ですが、昭和の改修にて屋根を銅板葺きにし、令和の大改修では耐震補強・床鏡板張・バリアフリー化・冷暖房完備等を行い大切に守られています。
この本堂では毎朝住職による勤行が勤められ、また様々なご供養の場として檀信徒の回忌法要や葬儀の際に使用されています。
本堂写真
本堂写真
本堂写真
本堂写真
本堂写真
本堂写真
観音堂《相模原市登録文化財》
観音堂は、密教本堂形式の仏堂で、相模原市周辺の歴史上貴重な建築物です。
総欅造りで、宝形造、正面三間奥行四間で手前一間のみを外陣とし、奥三間を内陣とするいわゆる小型の密教本堂形式として、観音霊場寺院に多く見られる造りです。
内陣奥には来迎柱を立て、その前面に須弥壇、そして安永5年(1776年)建造の宮殿型厨子内に祀られる本尊こそが、行基作と伝わる聖観世音菩薩像です。
また、宝暦9年(1759年)に開創された「武相卯年観音霊場」第25番札所に数えられ、古来より庶民の巡礼信仰の地でもありました。12年に一度、卯年の総開扉を除いては秘仏とされていますが、御開扉期間には多くの参拝客が訪れます。
建立時期は定かではありませんが厨子の年代から推察するに1700年代と考えられます。
現在は、日々のお勤めで檀信徒や地域の皆さまの安寧を祈願し、例大祭には髙尾山薬王院法類寺院に御助法いただき盛大に大護摩供法要を勤修します。
※例大祭日:5月第2日曜日
観音堂写真
観音堂写真
観音堂写真
観音堂写真
観音堂写真
観音堂写真
飯縄権現堂

観音堂の左手奥にある147段の石段を登ると、御神木のスダジイをはじめ老木が生い茂る中に「飯縄大権現」を祀る権現堂本殿が築かれています。

拝殿は間口四間奥行三間、本殿は一間四面の小規模な造りながら、精巧な斗栱や彫刻が施された見事な権現造りで、建立当初の姿を残す貴重な建築物です。
本殿に祀られる飯縄大権現の尊像は、火焔を背負い翼ある姿で白狐に乗り、不動明王の顔立ちをしているのが特徴です。
『武田信玄公に篤く尊信せられており、当山栄隆を計らんがため信州・飯綱山より持ち来たりて奉祀せらる』と伝えられています。

古くは戦いの神として、後に火伏せの神、農耕の神、特に養蚕の神として信仰され、1月14日の初飯縄祭には繭玉が奉納されてきました。
現在では、諸願成就の神仏として地域の人々の信仰を集めています。
※ 毎年1月14日 御開扉

飯縄権現堂写真
飯縄権現堂写真
飯縄権現堂写真
飯縄権現堂写真
飯縄権現堂写真
飯縄権現堂写真
仁王門
江戸時代中期までは、飯縄権現堂に上がる階段の途中にあったとされています。(新編相模国風土記稿・図参照)
現在の場所に移された経緯は定かではありませんが、およそ270年前と伝えられています。
左右二体の金剛力士像は、運慶の流れをくむ運派系の仏師・全慶の作といわれ、顔立ち・姿ともに力強さあふれる作風です。
仁王門、金剛力士像ともに傷みが激しく、前住職・秀孝代(平成18年)に改修・修復が施されました。
仁王門写真
仁王門写真
仁王門写真
仁王門写真
仁王門写真
客殿
令和6年に落慶した客殿は、檀信徒にご利用いただける施設です。
法要前の待機所として、また法要後お斎の席として利用できる客間や、玄関内には応接スペースもあります。
建物の外側には、左手に談話スペース、右手に男性用・女性用・バリアフリー対応のトイレを計3室備えており、どなたにも安心してご利用いただける設備を整えています。

Cultural properties

文化財

人々の暮らしと普門寺
普門寺は、霊場としての「観音さま」あるいは「飯縄さま」檀信徒にとっては「お不動さま」として常に近隣の人々の信仰を集めていますが、古くから日常生活の中にあっても、人々が集う場所として親しまれてきました。
普門寺が地域の人々と共にあった様子がうかがえる伝え話や出来事を紹介します。

山本秀順和上について

  • 髙尾山薬王院 第三十一世貫首 山本秀順大僧正 明治44年~平成8年
    普門寺には、後に高尾山薬王院の御貫首となられる山本秀順和上が住職を務めた時期がありました。
    昭和12年、26歳の若さで普門寺の住職に就任しましたが、学生時代に信仰仏教青年同盟の活動に参加し、機関誌に戦争反対の一文を投稿したことが問題となり巣鴨拘置所に450日間収監されました。そのため、普門寺に実際に在住していたのはほんの2~3ヵ月だったようです。
    のちに、当時の事件について秀順和上は、「仏教の戒律、その第一にあたる不殺生戒、このことを戦争するという行為の中で、僧侶として如何に対処すべきか、ただ、そのことを私は真剣に考えた。でもそういうことを考えることは、結果としては国賊と呼ばれてしまう時代だったのだ。」と語られ、また、「釈放されるまでの450日間、世間から隔絶されたその歳月は、今思うとき、それは苦痛というよりは、むしろ大変な修行の場をいただき、信仰ということをじっくりと考えさせられたありがたい仏縁の日々であり、今は大変に感謝している。」と振り返りました。

  • 山本秀順

【略歴】

  • 明治44年 埼玉県狭山市 高竹山明光寺にて出生
  • 大正13年 高尾山薬王院にて出家得度
  • 昭和4年 埼玉県立川越中学校(県立川越高校)を卒業
  • 昭和5年 智山専門学校本科(大正大学)に入学し真言密教を学び始める
  • 昭和7年 妹尾義郎の講演に感銘を受け信仰仏教青年同盟の活動に参加
  • 昭和10年 髙尾山薬王院入寺
  • 昭和12年 相模原市 金剛山普門寺に晋山し住職となる
    (晋山後、以前に参加していた信仰仏教青年同盟の件により巣鴨拘置所に収監される)
  • 昭和17年 長野県松本市 兎川霊瑞寺に縁あって入寺、結婚し山本姓となる
  • 昭和19年 同寺住職となる
  • 昭和28年 髙尾山薬王院第三十一世貫首に42歳の若さで就任
  • 平成5年 40年の長きに渡り務めた貫首の座を弟子の大山隆玄師に委ね退任する
  • 平成8年 2月4日 遷化(世壽84歳)

貫首を務めた40年の間には、一山の僧俗を率先垂範し、多くの弟子を薫陶。仏舎利塔の奉安をはじめとして仁王門の再建、本堂の拡張など次々と境内の整備に着手。自身は戒律に即して生活を調え、清貧な生活を送った。
自然界に対する造詣が深く、あらゆる生命を尊ぶ「禽獣草木悉有仏性」の立場から髙尾山を「殺生禁断」の地とし、時代に先駆け自然を破壊する行為に反対。また、「明治の森高尾」の国定公園化に取り組み、暖帯林と温帯林が共存する高尾山の貴重な自然保護の先駆者となり、年間約300万人の参拝者・登山者が訪れる霊山・髙尾山の基盤を築く。
また、ラジオやテレビ、講演会などをとおし、仏教を平易な言葉で語り掛け、『 昭和の名僧』として世に広く知られた。

Access

交通のご案内

  • 宗教法人 普門寺

    〒252-0117 神奈川県相模原市緑区中沢200
    TEL:042-782-2100
    FAX:042-851-2239
自動車でお越しの方
国道16号より国道413号線を利用し約15分
圏央道・相模原インターより約10分
※「都井沢」交差点をトヨタ「U-BASE」側に曲がり30m先左折
電車・バス・徒歩でお越しの方
JR横浜線橋本駅・京王相模線橋本駅より神奈川中央交通路線バスを利用
橋本駅北口発「三ケ木」行き「若葉台住宅」行き「城山」行きいずれかに乗車
「都井沢」下車 徒歩約10分